近代日本美術と中国
Ishibashi 石橋国際シンポジウム
プログラムと発表要旨
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基調講演
ジョシュア・A.フォーゲル
カナダ・リサーチ・チェア、ヨーク大学 教授
Session 1: 文化で繋ぐ:日本と中国、そして日中をも越えて
沈 揆一
カリフォルニア大学サンディエゴ校 教授
渡辺 俊夫
セインズベリー日本藝術研究所 教授
金石学と日本美術界: 平福百穂筆「豫譲」とその文化圏を超えるコンテクスト
前田 環
美術史家
塚本 麿充
東京大学 東洋文化研究所 准教授
富澤ケイ 愛理子
イースト・アングリア大学 講師
Session 2: 多様な中国:「理想」と「現実」? 「新」それとも「古」?
ウォルター・デイビス
アルバータ大学 准教授
チェルシー・フォックスウェル
シカゴ大学 准教授
塩谷 純
東京文化財研究所 近・現代視覚芸術研究室長
佐藤 道信
東京芸術大学 教授
Session 3: 近代日本の文人文化
ロジーナ・バックランド
スコットランド国立博物館 シニア・キュレーター
マシュー・フレーリ
ブランダイス大学 准教授
阮 圓 (アイーダ・ユエン・ ウォン)
ブランダイス大学 教授
Session 4: 中国と欧州の接触圏としての日本
蘇 文惠 (ステファニー・スー)
コロラド大学ボールダー校 助教授
稲賀 繁美
国際日本文化研究センター 教授
ジュリア・F.アンドリュース
オハイオ州立大学 特別名誉教授
基調講演
中国と近代日本文化:当たり前か、常識はずれか?
ジョシュア・A.フォーゲル
カナダ・リサーチ・チェア、ヨーク大学 教授
この講演では、大きな視点から明治期とそれ以前における日中相互間の影響とその意義を考察する。明治以前の中国から日本への影響及び明治期の日本から中国への影響については多くの研究があるが、明治以前の日本から中国への影響、また明治以降の中国から日本への影響の研究は非常に稀である。今回のシンポジウムではその最後の課題について美術史を通し考察するのが狙いである。国民国家という範疇の明示はまぎれもなく近代の現象であり、その範疇をこえての文化共有は明治のみならず、大正・昭和初期を通じてさえも様々な分野で行われた (例えば、テクストや術語等)。そうした近代の日本から中国への影響の評価において美術史は他の分野に遅れをとったが、十年前に私を含む研究者グループで考察した事は『近代中国美術に於ける日本の役割』(The Role of Japan in Modern Chinese Art) に明らかである。今回の会議は、その逆の近代日本美術における中国からの影響をテーマとするが、それは日中文化交流史研究の最先端となるであろうと考える。
(TM訳)
Session 1: 文化で繋ぐ:日本と中国、そして日中をも越えて
文人芸術と日中交流
沈 揆一
カリフォルニア大学サンディエゴ校 教授
近代日本庭園と中国
渡辺 俊夫
セインズベリー日本藝術研究所 教授
近世以前の多くの日本庭園は中国に遡る要素を含んでいる。そして江戸時代の庭園には中国趣味に溢れたものがしばしばある。明治時代から太平洋戦争初めにかけての時代では中国と日本の間の直接の人的交流は前例をみないほど活発なものであった。この頃、一部の日本の文化人の間にみられる強い中国趣味にもかかわらず、直接の模倣や輸入といった現象はあまりみられないようである。既存の日本庭園のケースでは、京都にある橋本関雪の庭、五浦にある岡倉関係の庭、そして最も異例なものとしてアイルランドのタリーにある日本庭園などがあり、これらでは中国と日本の要素のトランスナショナルな融合が行われている。戦後では、一つの庭の中にこれら二つの要素を混ぜるというよりは、日本庭園が中国に作られ、中国庭園が日本で作られるようになった。最近では、この二カ国は庭を世界中に寄贈することによって、国際的な場でお互いに競い合うようになる。
金石学と日本美術界: 平福百穂筆「豫譲」とその文化圏を超えるコンテクスト
前田 環
美術史家
古代中国の刺客を描いた平福百穂の「豫譲」は1917 年文展で特賞を得た。いうまでもなく、当時最も権威のあった官公募展での受賞である。その画題は司馬遷の『史記』(紀元前100頃) に取り、様式は顧愷之(344頃-408頃)に倣い、構図は武梁祠画像石 (147頃-151頃) に由来している。百穂のこの作品には金石学への傾倒という日本美術の新たな展開が見受けられるが、それは清朝後期から民国初期の知識層の間に浸透していた好古主義の基盤であった。また、「豫譲」の背景には「東洋美術」という概念があるが、それは東洋のみならずユーラシア大陸全体を通しての文化の繋がりを意識した当時の日本の知識人によって提唱された。こうした点を踏まえて考えると、中国古典をヒントとした「豫譲」は、国家に内包された価値観というより、むしろ大陸を通しての広い文化の繋がりを重視した思想が反映している様に見える。中国はこの様な日本美術のモダニズムにとって掛け替えのない存在だったのではないだろうか?
犬養毅と岡山文人サークル: 実業・政治・文人画
塚本 麿充
東京大学 東洋文化研究所 准教授
従来までの近代日中美術交流史研究では、内藤湖南(1866-1934)、長尾雨山(1864-1942)など、いわゆる職業 (professional)としての学者、画家たちを研究の中心としてきた。しかしながら本稿においては、日本において19世紀に至る迄社会の規範として広く受け入れられた「漢学」の受容者が、このような大都市のエリートのみに限らず、むしろ地方都市の文化的・経済的主導者であったことに注目し、この漢学ネットワークこそは、犬養毅(1855-1932)の熱心な政治的支持者層とも重なっていたことを指摘する。また犬養と同じ岡山出身であった柚木玉邨(1865-1943)、田邉碧堂(1864-1931)という二人の実業家をとりあげ、政治面ではともに犬養毅の熱心な支持者であったこと、そして文人としてはともに漢詩をたしなみ、従来までの江戸文人画風を批判して、京都学派が熱心に鼓吹した四王正統派の文人画を、素人として描いていたことを指摘する。この、犬養毅を中心とした政治・実業・漢学をつなぐネットワークは、1932年の犬養毅の暗殺まで社会的な機能を継続させたのである。
生き続ける伝統絵画:中国と琉球絵画の系譜を継いだ近代沖縄絵画
富澤ケイ 愛理子
イースト・アングリア大学 講師
拙稿では、1987年琉球処分後の沖縄近代絵画発展において中国絵画がどのように影響していたのかについて論じる。伝統的琉球絵画は琉球王府の絵師の留学により中国絵画を習得するなど、中国との深い文化交流によって発展したが、近代以降は明治日本の美術政策により日本画の流れの中に取り込まれていったと、これまでの先行研究では論じられてきた。そうした中、近代沖縄絵画における中国絵画の影響についてはほとんど論じられることはなかった。その理由として、未曽有の被害を生んだ沖縄戦 (1945) などによる資料の焼失ならびに近代以降の日本と中国の政治的関係があげられる。拙稿では、明治時代における沖縄絵画の日本美術史及び東アジア美術史上での再評価を試みる。また沖縄近代絵画にみられる中国性を論じることで、近世以前の琉球絵画からの連続性とその伝統の再生を明らかにするものである。
Session 2: 多様な中国:「理想」と「現実」? 「新」それとも「古」?
本山彦一(1853-1932)と日本の漢文化:その行い、出版物、そして社会的コンテクスト
ウォルター・デイビス
アルバータ大学 准教授
本稿は大正・昭和初期の日本美術界においての中国美術及び文化に対する関心についてより理解を深めるため、本山彦一(1853-1932)の漢文化的活動とその社会的ネットワークを考察するものである。本山は日本の新聞出版業界の先駆者であったが、中国絵画を収集し、漢文の書を嗜み、中国に感化された南画を賞賛し、支那学者である長尾雨山(1866-1934)や内藤湖南(1866-1934)等の企画した中国伝統に基づく文化活動に参加した。いわば、本山は日本美術界に於いて中国美術と文芸を促した日本のエリート実業家及び政治家の代表的な一例であり、その行為は20世紀日本での清代文人文化及びその価値観の新たな流布を如実に語る。そしてそれは日本のエリート社会のネットワークにおいて、伝統的な雅会或いは従来からの文化的趣向や格言を表した漢文の書等を通して広まった。そうした清代文人文化とその価値観は出版技術の近代化や展覧会の発展に伴い、一般にまで浸透していく。中国に拠り所を求めた美術とそれを巡る行いは近代日本美術界に活気を与え、それを豊かにしたのである。
(デイビス 淳子訳)
もう一つのユニバーサルな美術:大正期の日本洋画家と文人画
チェルシー・フォックスウェル
シカゴ大学 准教授
20世紀初頭から数十年間、日本の芸術家や知識人は洋画と写真にある一定の「普遍性」(universality) を見出した。その優れた迫真性と様式の透明感は様々な文化の特質を超える様でもあり、それ故にそれは真に近代的且つ国際的な視覚表現方法とも思われた。しかしながら、ある種の喪失感を感じる者もいた。この「普遍性」は実際ギリシア・ローマ文化を起源とするが、それを肯定する事は、東洋の伝統を退ける事の様に思われたのである。この発表では、1910年末から1920年代にかけ、明清様式の文人画を是認した萬鉄五郎や小杉放庵等の洋画家について考察するが、彼らはそうした文人画を西洋ではなく東洋文化の伝統を起源とするもう一つの普遍的な美術として受け入れたのである。美術評論の分野では、『国華』主幹を務めた学者の瀧精一が所謂「文人画の復興」と呼ばれる大正・昭和初期の現象の先導的役割を果たした。瀧、日本洋画家、そして20世紀初頭の美術の観衆の間に集中したいくつかの要素がこの時期の文人画の復活をもたらしたと言えよう。
(TM訳)
院体花鳥画と大正期の日本画
塩谷 純
東京文化財研究所 近・現代視覚芸術研究室長
速水御舟や岸田劉生の大正時代後期の作品に院体花鳥画の影響が見られるというのは、つとに指摘されるところである。また彼らに先駆けて、京都の土田麦僊や榊原紫峰といった日本画家も、中国の花鳥画に関心を寄せていた。御舟や劉生が写実性を追求した結果として宋元院体画の世界にのめり込んでいったのに対し、麦僊や紫峰は中国花鳥画の装飾性を媒介としてその魅力に取りつかれていったのである。いずれにしても彼らの興味を引いた中国絵画は、当時の日本にもたらされたばかりの新来の文人画ではなく、江戸時代以前より日本に伝来した古渡りの花鳥画であった。この時期、とくに将軍家をはじめとする名家によって伝来した宋元画が、茶の湯の名物を志向する原三溪のような近代数寄者によって珍重されていたことも注目されよう。このような大正期における古渡りの中国花鳥画へのまなざしは、やがて昭和戦前期に流行する、静謐で端麗な日本画のスタイルを準備したものと思われる。
「理想」と「現実」の中国美術史
佐藤 道信
東京芸術大学 教授
1910年代からの中国美術の大量流入とそれによるコレクション形成が、なぜ関西と京都帝国大学を中心とする人的ネットワークで行われたのか。明治維新 (1868年) 前後に生まれた世代の彼らは、西洋化を進めた日本画・洋画の各新派と同世代で、時代の先端を自覚していたこと。1907年新設の京都帝大の文科大学が、地の利を生かした仏教・東洋文化研究に力点を置いたこと。東京は旧華族コレクションの売立でその争奪戦に走っていたことなどを指摘する。またこの時期の日中交流から生まれた成果から、中国では「文人画」「美術」概念による「中国美術史」への動きが始まり、日本では新渡りの美術品が既存の中国美術観に接続され、それを補完(淘汰より共存)していったことを指摘する。
Session 3: 近代日本の文人文化
明治初期の書画に見る中国
ロジーナ・バックランド
スコットランド国立博物館 シニア・キュレーター
1868年の明治維新後、東京では文人文化ブームが巻き起こったが、その頃の書画家の番付を見ると確かに中国の風潮を意識しているものが多い。こうした人気を裏付けたものには、中国から来た学者や芸術家からの日本文人文化への直接の関与があるが、その様な文化交流は近代以前の江戸の地では見られなかったのではないだろうか? 近代に入り、東京に駐在した清国公使館員も来日中国文人の一角を成した。彼等の文芸をめぐる遣り取りや日本の出版物への寄稿については以前から研究されているが、それに加え、当時盛大であった公的書画会に参加したことは同時代の新聞の宣伝からも明らかである。彼等と日本人との友好関係は画家である滝和亭の例に如実だが、滝は30年を隔てて生涯二度中国人と深く交わった。また、日本の出版業者の中には同時代の中国画家の作品の様式をその画譜の新版や再版出版を通し紹介することに専念した者もある。こうした様々な事例はこれまであまり注目されなかった日本人と中国人との「接触圏」を明らかにする手がかりとなるだろう。
(TM訳)
首都圏をこえた漢詩書画会:明治日本における王治本の旅
マシュー・フレーリ
ブランダイス大学 准教授
日本の漢文芸術は、作家の数、出版物の量、地域を超えた広い範囲での普及、社会的及びジェンダーの多様性の点で、紛れもなく十九世紀にそのピークを迎えたということは、近年ようやく広く認識されるようになった。中でも漢詩は江戸時代末期から著しく広がり、明治初期にはこれまでにない人気と隆盛を誇った。そうした明治初期の漢詩の場で特に重要だったのは、清国からの文人を含む海外からの新しい参加者の存在である。当時の詩選、文学雑誌、新聞のコラム等に対談者として見え始めた清国文人の名は、1870年後半から清国公使館員を含め次第に増えてくる。その中でも、王治本 (1835-1908) は、特に長く日本に滞在、広く日本国内中を遊歴、また様々な日本人が書いた漢文を深く理解した点において、他の清国文人とは少し異なる。この発表では、王治本の数十年に渡る全国津々浦々への周遊の基盤となった名声とネットワークを、彼が日本滞在当初の五年間 (1877-1882)に東京でどの様に確立したかを考察する。また、王はどの様に地方の画家や詩人と合作を営み、地方新聞や雑誌を使いこなし、日本の歴史と文学に深く関わったかを明らかにする。
(TM訳)
近代俳人の書と中国碑学派: 河東碧梧桐を事例として
阮 圓 (アイーダ・ユエン・ ウォン)
ブランダイス大学 教授
著名な俳人の河東碧梧桐(1873-1937)は、「近代俳句の父」とされた正岡子規(1867-1902)の高弟であり、その文学理念の唱道者である。同時に卓逸した書家でもある。碧梧桐の中国碑学派への傾倒は、子規の朋友で芸術家の中村不折(1866-1943)からの感化によるところが多い。古色ある隷書を参考にした碧梧桐の書には、重厚な墨痕と一字一字つながずあえて筆を改める書法が見える。それは、従来の俳人の書にある柔軟な筆使いの流れを強調した行書とは、大きく異なっている。加えて、常軌を逸脱したとも言える5-7-5の規律にこだわらない自由律の俳句を提唱した碧梧桐は、芸術のあらゆる面において慣習を破った革新者といえるだろう。この論考では、碧梧桐の俳句と漢文の書の根源について言及。また、近代日本に於いて優れた中国書跡のコレクションを築いた中村不折とのコラボレーションついても明らかにしたい。
(TM訳)
Session 4: 中国と欧州の接触圏としての日本
道義的な体:中村不折における中国画題の作品
蘇 文惠 (ステファニー・スー)
コロラド大学ボールダー校 助教授
1907年、フランス留学から帰ったばかりの中村不折(1866-1943)は、彼の中国画題を描いた初めての作品を文展に出品した。「白頭翁」と題されたこの作品は、若い男女が老人に遭遇するシーンを描く。この頃から1941年までの間、不折は中国に主題をとった作品約20点を文展・帝展に出品、また、1929年には上海で開かれた中国初の全国美術展にも出品した。こうした作品は中国の雑誌にも掲載された。不折の中国画題への傾倒は他の画家のそれより長く、それ故、中国の日本美術に於ける役割の隠れた一面を見ることができる。不折の画題は一遍して唐時代以前の古典からの出典であるが、その絵画は「歴史画」と称されることが多い。「歴史画」という呼称は日本のナショナリズムを彷彿させるが、これまでの研究でも「歴史画」の制作は国家のイデオロギーと関連して考察されてきた。では、中国に画題をとった不折の作品は、日本の近代美術とナショナリズムの脈絡にどの様に当てはまるのだろうか? この論考では明治期の雑誌、道徳教科書、画家自身による記述、20世紀フレンチ・アカデミーにおける絵画の実習等様々な資料を参考に、「歴史画」というものを様々な文化圏を越えたコンテクストの中で再考察する。その上で中国の画題を描いた不折の絵画は、歴史を描く為や過去を新しい視点から見直す為ではなく、むしろ、儒教に基づいた道徳観念を日本市民に促すための表現であったと言及する。
(TM訳)
中国と欧米の美術理論の接触圏としての近代日本美術: その歴史的再考
稲賀 繁美
国際日本文化研究センター 教授
近代日本の芸術、とりわけその絵画的表象は、中国と欧米の審美的規範が遭遇した場として解釈できよう。本論文はこうした東西の審美的価値観の遭遇の一班を鳥瞰することを目指す。渡辺崋山は幕末の蘭学勃興期の世代に属するが、欧州の絵画技法に注目を寄せる一方、気韻生動を写生の観念と対比させて考察を巡らせた(1839)。半世紀後、アーネスト・フェノロサは「ノータン」(濃淡)に「キアロスクーロ」(明暗法)の対極を見出したが、アーサ・ダウはその著書『構図』(1899、1913)の中でこのフェノロサの見解を受け継いて発展させた。1910年代より日本の美学者たちは気韻生動をテオドール・リップスの「感情移入」理論に類比したが、アーサー・エディは、1913年のアーモリー・ショウに取材した書籍で「エソラゴト」(絵空事)を抽出し、それをカンディンスキーの抽象理論(1908)に対置した。カンディンスキー試論の日本語訳者、園頼三はエディに反論しつつも、崋山に加え、惲寿平等中国の画家=理論家を参照し、抽象理論と気韻生動との関係をさらに追求した。橋本関雪はセザンヌより与謝蕪村のほうが優位に立つとの議論をなした(1922)が、豊子愷はその関雪に言及しつつ中国美学の西洋に対する優位を主張するに至る(1930)。その余波は第二次世界大戦後の台湾における劉國松と徐復観とのあいだの「現代絵画論争」にまで至ることにまで、本論文は探索を及ぼそうとする。
中国の色:1945年以前に訪中した日本の洋画家たち
ジュリア・F.アンドリュース
オハイオ州立大学 特別名誉教授
この発表では梅原龍三郎(1888-1986)と安井曽太郎(1888-1955)をはじめとする日本洋画家の1945年以前の作品に焦点をあてる。特にそれらをフランス画家アンドレ・クロード(Andrea Claudot、1892-1982)や中国画家劉海粟(1896-1994)の作品と比較し、「異国・異文化的」(exotic) という事をも含め「見慣れない」(unfamiliar)ものがどの様に画家の糧となり、作品に良い効果 (positive effects) を齎したかを考察する。具体的には、1945年以前に訪中した日本人洋画家––その多くはフランス留学の経験者であるが––の画業に対し、中国の風景を直接見るという体験がどの様に20世紀半ばの日本洋画の様式の発展を促したかを考える。また、安井曽太郎の中国服を着た日本婦人像においては、日本教養人の中国とのより密接な繋がりという背景を踏まえて再考する。
(TM 訳)